西南戦争熊本協同隊進発の地保田窪神社
2018/7/31(火) 曇/晴
2週間ぶりの自転車行となった。
この間、熱中症なのか、寝冷えなのか、感冒なのか原因がよく分からないが、38°越えの発熱があり咳と鼻水に悩まされていた。徐々に熱も下がり少し気力が戻ってきたので自転車を走らせた。
目的地は、西南戦争熊本協同隊進発の地保田窪神社。
その後は午前10時を折り返し点と決めて東方向へ走る。
保田窪菅原神社は、その前を藻器堀川(しょうけぼりがわ)放水路が流れ、川を跨いで参道に繋がる直線道路が200mほど続いている。(写真1参照)
境内は、東海大学熊本キャンパスに3方を囲まれるようにして南を向いている。(写真2参照)
境内右に「三百年祭記念碑」(写真3参照)があり、由緒書が彫られている。
それによると細川熊本藩初代忠利公入国のとき、ここ保田窪に五戸が入植し、邑をつくったのが初めとある。
入植者の身分は郷士か?菊陽町の鉄砲小路の蘇古鶴神社と雰囲気が似ている。
徳川政権も落ち着きつつあり、移封を機に兵員の削減を図るための入植か?又は加藤氏改易の後でもありその浪士か?
兎谷から御代志あたりも原野が広がり、「御代志」の地名は入植者の名前だったとのおぼろげな記憶がある。
郷士身分の子孫であれば、宮崎八郎の思想に共鳴する者もいたであろうと推測し、ここが挙兵の地になったのも理解できるような気がする。
保田窪神社を後にして東方向へ移動。R3北バイパスを渡った所に新南部菅原神社があった(写真4参照)。
ここは西を向いたお社である。新南部神社と菅原神社の合併社とある。
新南部神社を後にして、県道145を東進し上南部乙姫神社に立ち寄る(写真5参照)
この神社の御祭神は自然石(玉石)という。乙姫とは神武天皇の母玉依姫のこととある。
乙姫神社を後にして、県道145を鹿帰瀬まで来たところで午前10時。
みらい橋で、白川を左岸から右岸に渡り帰途に就く。
みらい橋上から白川を除くと河川拡幅工事が着実に進んでいる(写真6参照)
途中、吉原橋のセクション箇所を見る。
1年程まえにセクションの波型の溝にタイヤを取られ、落車した所だ。
一波分溝が埋められていた。ありがとうございます。
感冒に罹患しているとはいえ、まずまずの行程だった。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)17km→みらい橋15km→熊本(自宅)所要時間3時間(実2.5時間) 総計32km 走行累計25,364km