熊本から気ままに山と自転車のブログ

ウォーキング・サイクリング・文化財探訪・山行のこと等を記しています。

宮崎兄弟生家


宮崎兄弟生家のボタン花園
2021/4/14(水) 曇/晴

今日は、10時出発、気温15°最高気温予想18°薄曇りだが降水確率0%と絶好のポタリング日和に、目的地は無謀にも柳川市中山熊野神社の大藤として出かける。

ルートは、県道3を選択する。菊池川を渡る辺りで正午のチャイムを聞く。距離を調べると目的地までは、未だ半分所である。
休息無しで走っても到着は14時頃、直ぐ引き返し休息無しで走らなければ18時には帰宅出来ないので、早々に諦めて南関町坂下周辺を探訪して荒尾市方面に変更する。

15時前、熊本県指定史跡「宮崎兄弟生家」(写真11参照)に到着する。
内部が全面芝生になっていた。


目的のボタン花園は東南方向(写真12参照)の庭園の中にある。


ボタンの花(写真13・14参照)は、満開の時期は少し過ぎたようだが、私の目には眩しく煌めいて見えた。


東南の門の外にある説明板(写真15参照)には「この家屋は、熊本県における自由民権運動の先駆者として知られている宮崎八郎、民蔵、弥蔵、滔天の宮崎四兄弟の生家である。
八郎は、中江兆民と交わり、ルソーの「民約論」の感化を受け自由民権論をとなえ、明治10年(1877)の西南戦争で西郷軍に加担し八代で戦死した。・・・民蔵は、土地の再配分を唱え・・・弥蔵は、全アジアの解放・・・寅蔵(滔天)は、兄弥蔵の志を受け継ぎ、孫文をたすけ・・・孫文が、中国を追われ、寅蔵によってここにかくまわれたのは・・・」とある。


出かける時は薄曇りであったが、午後は陽射しも強くなった。
帰宅は18時、今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)50km→宮崎兄弟生家40km→熊本(自宅)
所要時間8時間(実7時間) 総計90km 走行累計39,925km


宮崎兄弟生家
2018/3/1(木) 曇

梅の花が満開のこの季節、一昨年宮崎兄弟生家で梅の花を見たことを思い出し、再度訪問したいと思い荒尾市を目的地とする。

国道389を少し北へ走り、宮崎兄弟生家(写真5参照)に着いた。


武家屋敷風日本家屋の座敷には、孫文、宮崎滔天筆談のようすを表した蝋人形がある。
梅の木(写真6参照)は、前回訪問時と同じく今年も綺麗な花をいっぱい咲かせていた。


宮崎兄弟生家説明板(写真7参照)に「長兄八郎は若くして熊本自由民権運動の先達となり文筆と行動にたけたが民権党を率いて西南の役にたおれた。」とある。
宮崎八郎戦没の碑は、八代市の球磨川萩原堤にある。
碑文は、司馬遼太郎氏の筆による。
西南戦争は、熊本県ほぼ全域が戦域だった。


東南方向にも門がある。こちらが宮崎家正門(写真8参照)だったようだ。


今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)49km→荒尾市宮崎兄弟生家45km→熊本(自宅) 所要時間7.5時間(実6時間) 総計94km 走行累計23,715km


宮崎兄弟生家
2016/2/18(木) 晴

今日の天候は快晴。昼間の気温は春の陽気の10度予想に、少し遠距離の荒尾市別当古墳を目標にポタリングに出る。
荒尾市に走る途中、荒尾市の国道501に猫宮と言う珍しい名称のバス停があった。

荒尾市宮崎兄弟生家に到着。
ここまで昼食を含めて4時間。
ここから別当古墳まで往復1時間、見学0.5時間、帰宅を18時とすれば少し時間が足りないので、生家資料館を見学して引き返すこにしよう。
入り口際に4か国語による案内板(写真2参照)がある。
ここは、中国革命の父と言われる「孫文」と親交があった宮崎兄弟の生家であり、孫文が訪れた場所。


中に入ると、茅葺葺き家(写真3参照)がある。


南側に進むと門(写真4参照)が見える。こちらが本来の門のようだ。


家は曲がり縁の有る武家造り、昔の家として大きい(写真5参照)
宮崎家は80数町歩を有する郷士という。


床の間の有る奥座敷には、筆談している孫文と滔天、それを見守る夫人の蝋人形がある(写真6参照)


資料館には、沢山の資料が展示してあり、孫文直筆の額(写真7参照)ある。


滔天直筆の額(写真8参照)も目を引く。


毛沢東直筆の「宮崎滔天閣下」の尊称をもっての講演依頼書もあった。
また、滔天は桃中軒雲衛門の弟子になり、桃中軒牛衛門と名乗り政治的主張を語っていた時もあったと言う(写真9参照)
宮崎隆介は滔天の長男。
柳原白蓮(柳原燁子)さんの資料もある。


宮崎邸の庭には、青い空を背景に梅の白い花が咲いていた。
春を実感する。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)44km→宮崎兄弟生家44km→熊本(自宅)所要時間6時間(実4時間) 総計88km 走行累計15,360km