熊本から気ままに山と自転車のブログ

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種田山頭火句碑・宮崎八郎戦没の萩原堤

種田山頭火句碑・宮崎八郎戦没の萩原堤
2018/7/1(日) 晴
一週間ぶりのポタリング。
目的地は、八代市球磨川の萩原堤、宮崎八郎戦没の地。
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」を語るには、時代背景を知らねばならないと思い、司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」を読んでいる。
この小説に肥後荒尾村出身の宮崎八郎のことが語られている。
宮崎八郎は、中江兆民が翻訳したルソー「民約論」を知っており植木学校を興した。その八郎が27歳にして西南戦争萩原堤の戦いで戦死している。
薩摩の「私学校」とは思想的には必ずしも同じではないと思うが、なぜ薩軍と行動を共にしたのか、「翔ぶが如く」を未だそこまでは読んでいない。
球磨川萩原堤は、国道3を南下し、人吉に分岐する国道の橋の手前の左手にある。
「追分」のバス停標識があったが、旧くは、ここが人吉との分岐点である。
高さ2m直径60cmの砂岩の円柱状の道しるべ(写真1参照)が今も残る。


脇に説明板(写真2参照)があった。
概略を記したいところだが、長文のため省略する。


その横に「このみちや いくたりゆきし われはけふゆく」の山頭火の句碑(写真3参照)がある。
石は、伊予松山産、碑文は日記の文字を拡大しという。


その脇の標柱(写真4参照)に、その時の山頭火の胸中・立場を説明してある。
この萩原塘の吾妻屋に一泊したき読んだ句で、以前の日記をすべて焼却し、新しく書き起こした日記の冒頭を飾る句がこの句であると記す。
山頭火の心中が思われる。


山頭火の句碑から2~30m上流側に、「宮崎八郎戦没ノ碑」(写真5参照)がある。


碑文(写真6参照)は、司馬遼太郎氏の筆によるという。


説明文(写真7参照)は、この地が西南戦争の激戦地であり、宮崎八郎は4月6日にこの地で倒れたとある。


眼前は、水量豊かな球磨川(写真8参照)がこの地で大きく屈折して八代海へ注ぐ。
帰路は国道3を北上する。


国道が九州縦貫高速道を潜る手前に、上片町鬼の岩屋古墳群第1号墳(写真9参照)が見える。
道の反対側から写真を撮り、帰路に就く。


この後40kmの道のりを帰るのだが、気温33°陽射しが痛いほどに暑い。
歩道は路盤が悪く走り辛いので車道を走っていたら、長いトレーラがギリギリを追い越していった。
走行スピード自転車30km/hトレーラ50km/hと仮定して、その差20km/hほど。
トレーラの長さ15mとして、並走する時間3secほど、並走する距離は25~30mほどになる。本当に怖い!
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)43km→萩原堤44km→熊本(自宅)所要時間7時間(実6時間) 総計87km 走行累計25,276km