熊本から気ままに山と自転車のブログ

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放牛石仏(地蔵)34・33・30B・39・60・43・56・27・3・20体目


放牛石仏(地蔵)34・33・30B・39・60・43・56・27・3・20体目
2021/11/02(火) 晴/曇

最高気温予報22°、晴れたり曇ったりの絶好の自転車日和に、午後13時半からポタリングに出る。目的を放牛石仏(地蔵)34・33・30B・39・60・43・56・27・3・20体目探訪とする。

先ずは池亀町南の上り口の放牛石仏(地蔵)34体目(写真1・2参照)を探訪する。


説明板(写真3参照)には、「五代細川綱利公の頃城下に貧しい鍛冶職の親子が住んでいた。
父七左衛門は生来の大酒吞みの上怠け者であったが子供は評判の孝行息子であった。
ある日(貞享三年一月四日)酒のことで腹を立て息子に向かって投げつけた火吹竹が表を通りかかった武士大矢野源左衛門に当ってしまった。
当寺十歳足らずであった息子の必死の哀願もきき入れず遂に七左衛門を斬りすてた。
悲嘆やるかたなく仏門に入り放牛と改めて「十年間に百体の石仏を建立して父の菩提を弔わん」と発願し百体の石仏を建立してその大願を達成した。この石仏は三十四体目である。
享保十七年(1732)十一月八日没。墓は横手町四方池台にある。」とある。


放牛石仏(地蔵)34体目を後にして、横手町四方池の33体目に向かう。
地図上では「放牛上人の墓」の近くにあるので一旦放牛上人の墓所に向かい、そこから下を覗いて見たが分からない。墓所から少し戻って左側の幅50㎝程の細い道を下ると、下り切る手前の左奥(写真4・5参照)に鎮座する。


放牛石仏(地蔵)33体目を後にして、田崎橋の放牛石仏(地蔵)30体目B・39体目(写真6参照)に移動する。


放牛石仏(地蔵)30体目B(写真7参照)は、一回り大きく錫杖を持った座像である。


その隣に放牛石仏(地蔵)39体目(写真8参照)が鎮座する。頭には螺髪があるに見えるが?・・・。30体目、39体目のどちらかが移設されたものと考える。


説明板(写真9参照)には「・・・(序文34体目にほぼ同じ)・・・享保7年(1722)から17年までの間に107体の石仏を建てました・・・享保11年(30体目)と12年(39体目)に建立された・・・」とある。


放牛石仏(地蔵)30体目・39体目を後にして、蓮台寺の放牛石仏(地蔵)60体目(写真10参照)に移動する。


放牛石仏(地蔵)60体目(写真11参照)は、八反坪公園の中の御堂に鎮座する。


石仏(地蔵)60体目(写真12参照)の錫杖を持った姿は30体目と同じだが、彫り方に変化がある。


御堂の扉の表に命日(写真13参照)を記した紙が貼ってある。


放牛石仏(地蔵)60体目を後にして、迎町1丁目の放牛石仏(地蔵)43体目(写真14参照)に移動する。
この地蔵堂には4体の地蔵尊像が鎮座し、中央に明治年号の地蔵尊。右側に放牛石仏(地蔵)が鎮座する。


放牛石仏(地蔵)の尊顔(写真15参照)は、顔前に提灯があり正面から拝顔できない。後ろに別の地蔵尊が見える。


御堂横の説明板(写真16参照)には、「放牛は、寛文(1670年代)のころ熊本古大工町の鍛冶職の子として生まれました・・・(序文34体目にほぼ同じ)・・・この石仏は、享保十三年の建立(四十三体目)で、以前は、この場所から約一〇m程南側にあった旧薩摩街道川尻往還(現国道三号線)の入口にあり、北の方を向いて行き交う人々を見守っていたといわれています。」とある。


放牛石仏(地蔵)43体目を後にして、産業道路を横断して本山1丁目の56体目(写真17参照)に移動する。


石仏の光背部に歌(写真18参照)が陰刻してあるようだが、後日調べてみようと思う。


放牛石仏(地蔵)56体目を後にして、白川左岸堤防に沿って少し下った公園の放牛石仏(地蔵)3体目・27体目(写真19参照)に移動する。


地蔵堂の中には、三体の地蔵尊(写真20参照)が小さな地蔵尊を中央に、右に3体目、左に27体目の放牛石仏(地蔵)が鎮座する。


御堂軒先に説明板(写真21参照)が掲げてある。
「江戸時代中期、熊本藩主細川宜紀のころ、現熊本市に「放牛」という人がおられました。享保年間(1716~1736)の肥後は飢饉や洪水が多く、人々の生活は困窮を極めておりました。心を痛めた放牛は精神的な救済をはかるため、自ら願主となって町民や農民に喜捨をつのり、各地に石仏の建立をすゝめました。
享保七年より享保十七年までの十一年間に、実に百十八体の石仏を建立しました。世にこれを放牛石仏と呼んでいます。
このお地蔵さん(右側)は享保八年の建立で、三体目です。蓮弁には放牛の銘があります。三体目台石に次の歌がありましたが、今は失ってありません。
くわこ(過去)よりも、未来に通る一休み、雨降らば降れ、風吹かば吹け。
隣り(左側)は、二十七体目で、享保十年建立であります。二十七体目の光背には「他力二十七体目」「願主放牛」と記してあります。」とある。


放牛石仏(地蔵)3体目・56体目を後にして、白川対岸(右岸)堤防下の公園の放牛石仏(地蔵)20体目(写真22参照)に移動する。
かなり大きめの地蔵堂で、正面に拝顔用の覗き窓が切ってある。


地蔵堂の中に6体の地蔵尊が鎮座する。放牛石仏(地蔵)20体目(写真23参照)は、立像のようだ。30体目、60体目と同じように一回り大きい。


地蔵堂の横に殿下石(写真24参照)がある。


説明板(写真25参照)には、「一五八七(天正15年)、天下統一を進めていた豊臣秀吉は、三〇万の軍勢を率いて当時九州を支配下においた島津氏の平定に向かった。秀吉が南下すると九州各地の武将は次々に攻め落とされ、隈本城主城久基も四月十三日に降伏した。そこで秀吉は十六日に隈本城に入り二泊している。十八日、隈庄に向けて出発したが、白川を渡るときにこの石に座して小休憩したので、この石を殿下石(でんかいし)と呼ぶようになったと伝えられている。」とある。
当時、白川には橋はなかった。新熊本城が完工した後、慶長六年に加藤清正により架設された。橋の名称は「長六橋」という。


ここを最後にして帰途に就く。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)21km→放牛石仏(地蔵)34・33・30B・39・60・43・56・27・3・20体目→熊本(自宅)
所要時間2.5時間(実2時間) 総計21km 走行累計43,723km