鬼の岩屋古墳群1号・5号墳・高取上の山古墳
2017/4/18(火) 曇/晴
茶臼山古墳から東南方向の上片町鬼の岩屋古墳群第1号墳に移動途中に塚(写真1参照)があった。大塚古墳公園の配置図からすると鬼の岩屋古墳群第5号墳か。
上片町鬼の岩屋古墳群第1号墳(写真2参照)は、国道3を横断して自動車販売店の横にある。
解説板(写真3参照)では、6世紀後半から7世紀の築造とある。球磨郡あさぎり町の才園古墳も同型で6世紀から7世紀の築造のようだ。
疑問1:大塚古墳は6世紀前半とあるので、前方後円墳の文化を持った後に、この石室古墳の文化を持った人々(球磨族か?)が現れたということになる。
疑問2:南肥後を中心にこの形の古墳が多くある。
封土は元々なかったのか、通常の版築工法でない盛土工だったので封土が流失したか?
南側から見る(写真4参照)。山鹿市駄の原鬼の釜古墳に同じ形式に属するのではないかと考えた。
石室内部を見る(写真5参照)
そこで思い出したのが、米原長者と駄の原長者の宝比べの民話。話は、宝物を並べた米原長者に対して、娘を披露した駄の原長者。見物に訪れた人々は子に勝る宝なしと駄の原長者の方に集まって、駄の原長者の勝ち。この民話は、封土のない古墳文化の愚直な原住民と新文化の新権力者との争いを揶揄した話と思っているが、検討違いか?
疑問3;肥後の古代は、中世まで続いたという歴史前章の逸話か?またこの古墳文化の一族は、中世の国衆の繋がるのか?道路側から見る(写真6参照)
もう一度国道3を元に渡り、高取上の山古墳を探す。幼稚園敷地西側に、コンクリートで固めた微高地(写真7参照)が見えた。
西側に廻って見ると、熊野座神社(写真8参照)が見えた。
石段を上がると色鮮やかな社殿(写真9参照)がある。この色鮮やかさは、さすがは呉の太伯の伝承地かと思わせる。
境内東南の角に解説板(写真10参照)があった。
この古墳も前方後円墳とあるので、社殿北側(写真11参照)を覗いてみる。幼稚園側から見たコンクリート壁は、後円部の残存部だったことが良く分かる。
まだまだ沢山の古墳があるようなので、後日また来たることにして帰途に就く。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)25km→鬼の岩屋古墳25km→熊本(自宅)所要時間8.5時間(実6.5時間) 総計50km 走行累計計20,417km