熊本から気ままに山と自転車のブログ

ウォーキング・サイクリング・文化財探訪・山行のこと等を記しています。

石川山古墳群

石川山古墳②
2015/11/5(木) 曇

石川山古墳群は、本年2度目で目的は3号の崩落開口部を見るため。県道30を東進し、植木町と合志市境の植木工業団地先を左折する。500m程行った道左側に標識がある。
石川山古墳群は12基の調査記録があるらしいが、工場用地造成で6~8号が破壊され9基が現存しているようだ。
私は、山の稜線に5基の古墳を確認しているが、今日は2号墳(写真1参照)と3号墳(写真2参照)を見る。



2号墓は前方後円墳というが、前方部にも陥没したような所がある。後円部塚頂に福岡県宗像市のグループのプレート(写真3参照)があった。


3号墳の崩落開口部(写真4参照)を改めて見る。5月に見たときよりは崩落土砂の体積が多くなっている。死床上部の石棚が見事に水平に施工されている。それしにしても、このまま崩壊していくのを放っておかれるのか?壊れていくのに、それほどの時間はいるまい。体積土から木が生えてその根が、幹が石組みを歪めていく。1500年の歴史構造物が、数十年で大きく変形崩壊すると考える。


石川山古墳群①
2015/7/3(金) 曇

植木工業団地近くの山道に「石川山古墳入口」の表示板(写真1参照)を見て、山に入る。


50mも歩いたろうか、直に見つかる。一番手前の小さいのが一号墳か (写真2参照)?


二号墳は、前方後円墳(写真3参照)


塚頂には名称板と測量杭(写真4参照)がある。


その南側に三号墳(写真5参照)。


南側に廻ると石室が大きく崩落(写真9参照)し、石室が口を開けている。つい最近のことのようだ。死床部の上部に平石が突き出ている。死床を保護する庇か?後に知ったことだが、石棺が石屋形になり、石屋形の袖壁を省略した形らしい。


少し下ったところに羨道部入口(写真10参照)があった。動物の巣穴になっているようだ。石室の崩落も動物のせいか?


三号墳羨道入口の側に名称板(写真11参照)がある。


そこから少し下った所に四号墳(写真12参照)はある。


四号墳石室は崩落(写真13参照)していて、ロープは張ってあるが手入れをされていないようで荒れている。文化的価値はないのか?私的には、はなはだ残念に思う。
1500年前の歴史の証が崩壊していくのを目にするのは辛い。


なぜこんな山のなかに古墳が?と考えたときに、炭焼き長者の昔話を思い出した。菊陽町の六道塚古墳も現在は畑の真ん中だが、その昔は森のなかだったと思う。古墳文化を支えたのは、水田開発による農業生産力だろうが、その水田開発や収穫に、そして武具としての鉄製品の製作技術が大きく寄与したのではなかろうか?その製鉄の熱源は木炭であったであろう。これら古墳の主は、炭焼き長者か、製鉄長者か?と思う。
この丘陵地の北は、古代湖「茂加の浦」に繋がる。その畔の千田聖母八幡宮には「昼夜分かたず八つの光が見え・・・」と伝承があることと関連するのか?