大王山古墳群1号・今寺観音四面仏
2016/4/8(金) 曇/晴
上平原古墳から丘陵を下り、旧薩摩街道を南へ1km程走る。早尾の大鞘川を渡らないで左折し、「大王山古墳群300m」の標識を見て左折する。大王山古墳第一号へは、この道からもう一度左折する所を直進してしまった。ほどなく左手に1号墳の墳石の標柱(写真1参照)を見る。
勝手な推測だが、「建武中興戦争碑」にあるように、山頂を山城として利用した時等に古墳石材を転落させたものだろうと思う。「東北方に1枚、西方6m道路下に1枚の墳石」の案内を見て奥へ進む。
しかし、墳石の所在は分からず、そのまま直進し高速道路を潜り「千椿古墳」へ向かう。途中、鶏の放し飼いのネットの中にキジ(写真2参照)がいた。自ら入ったのか?捕えられて入れられたのか?
宮原サービスエリア(下り)の東側の今寺地区に大神宮という古い歴史の社がある(写真3参照)。
右側に町指定文化財今寺観音四面仏(写真4参照)があり、その上部に「千椿古墳」はあると思い登ってみたが分からない。
再度高速道路を潜って上りサービスエリアの丘も、その南側の丘も登ってみるが、大王山古墳はない。農作業中の方にお聞きしてやっと分かった。早速教わったとおりに山を登る。中腹に新しい社(写真5参照)がある。
社の左側に丸石のご神体(写真6参照)がある。七城町の四面神社にもあった。
下段には古墳石棺蓋か?加工された扁平な石(写真7参照)がある。
そして3号墳の天井石を利用したという「建武中興戦場碑」(写真8参照)がある。
正平元年(1346年)10月の南朝年号が刻まれていて、「賊少弐頼尚を・・・」(写真9参照)とあるので、この地が南朝方であった。大王の直轄領?ということでの地名であろうか。古墳の築造年代と700~1000年の時間差はあろうが、系譜は続いていたと思いたい。
社の裏手から山頂に延びる高低差2~30mの急坂(写真10参照)を登る。
山頂にも社(写真11参照)がある。
社の裏手を見る(写真12参照)地山の石か?古墳の残存石か?
社裏手の塚に上がる。塚頂は、石室陥没か?調査掘削の跡か?やや窪んでいる(写真13参照)
塚頂から西北斜面を見る(写真14参照)。護念寺の屋根が見える。古墳築造の道はこちら側か?西方に2号墳、南西方に3号墳が尾根続きに見える。
大王山を降りる。旧薩摩街道に出た所に「文化財案内板」(写真15参照)がある。
1~2回では探訪しつくせない多さにさらに興味が湧く。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)40km→大王山古墳41km→熊本(自宅)
所要時間8時間(実5.5時間) 総計81km 走行累計16,409km
古墳探訪累計162基
大王山古墳群2号・3号
2016/4/4(月) 曇
宇土市椿原町から宇城市不知火町支所の横を通り、県道14に出て南へ走る。氷川町役場の標識を見て左折し国道3へ出る。国道3を右折し氷川町宮原の市街地を過ぎて左折し、国道3と並行する薩摩街道を南進する。
右側に護念寺がという寺院があり、その南にweb上で見た陸の孤島?と化した古墳(写真1参照)が見える。
寺院の中を通るのも失礼だからと、廻り込む道を探そうと少し南に行くと「山王山第三号古墳」の標識がある分岐路(写真2参照)がある。右側が薩摩街道で、左側が古墳に通じる道。2~30m進むと再度標識があり、そこを折り返し気味に左折し、急坂を上がる。
墓所の横を通り奥に進むと古墳に通じていた。塚に上がると、ほぼ石室部分のみ(写真3参照)を残して削平されている。
石室開口部左斜め方向から見る(写真4参照)。正面からはススキが茂り見えなかった。
1500年前の加工とは思えない精巧な加工石が見える。中央に「大王山古墳第二号」の標柱がある。
横から見る石室(写真5参照)。石の大きさと精巧な加工に、さすがは大王?の墓と感心する。
さて、ここが2号墳とすれば1号と3号はどこ?もしやと思い、通過した途中の墓所に引き返し、奥に進むと最上部に塚があった(写真6参照)。
早速塚に上がり標柱(写真7参照)を確かめる。「大王山古墳第三号」とある。
石棺保護の上屋(写真8参照)は、古代の住居イメージか?ちょっと洒落れている。
説明板(写真9参照)によると、1号墳は東隣とある。塚上から東隣の峰のそれらしい風景が見えるが、標高差もあるようなので後日探訪することにして帰途に就く。
今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)27km→東畑古墳22km→大王山古墳37km→熊本(自宅)
所要時間6.5時間(実5.5時間) 総計86km 走行累計16,328km