
加藤清正公像三体
2024/11/5(火)晴
最高気温23°と涼しい日になった。熊本では加藤清正公は神様として尊敬されている。そこで、目的地を熊本市内にある加藤清正公銅像三体を拝顔するするため午後14時半からポタリングに出る。熊本市内の清正公像は、昨日の八景水谷公園のものを含め四体ある。
先ずは、本妙寺公園の清正公像(写真1・2参照)を訪れる。300段の石段を登り切った広場の正面に、右手に槍を持った甲冑姿の清正公の銅像が建っている。説明板には、「中尾山(本妙寺山)の八合目、清正を葬る浄池廟の上手に屹立する。昭和十年(1935)は清正没後三二五年忌に当たったので、本妙寺ではその記念事業として清正の銅像を製作、安置することとし、その製作を長崎出身の彫刻家北村西望に依嘱した。同年四月、高さ八・二メートルに及ぶ銅像は上熊本駅に到着し、現地まで僧達の読経に併せて信者達が紅白の綱を曳いて登り、台座に据付けられた。浄池廟裏手から銅像までの石段も二五段区切りで三○○段につくられた。十九年四月戦争末期の金属供出で撤去されたが、三十五年四月に再建され今日に至っている。」とある。
熊本城登り口の御幸橋橋詰の小公園中に床几に腰を降ろした甲冑に長烏帽子姿の清正公銅像(写真3・4参照)がある。1979年に製作され、清正公像の中では最も知られているようである。今日も観光の人がカメラを向けていた。
電車通りを東に走って、健軍神社参道(八丁馬場)と国道57東バイパスとの交差点左手前角の歩道上に騎乗した甲冑に長烏帽子姿の清正公銅像(写真5・6参照)がある。清正公の生誕(1562年(永禄5))450年記念とあるので2012年の建立か。ここを折り返し点として帰途に就く。
帰路でアクシデントがあり、薄暮の18時に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)16km→健軍神社参道11km→熊本(自宅)
総所要時間3.5時間(実2.5時間) 総計27km 走行累計60,529km
2024/11/3(月)晴
最高気温26°夏日になった。午前中庭木の剪定に取りかかったが、暑さに閉口して午前中で止める。午後16時から、目的地を加藤清正公像があるという八景水谷公園としてポタリングに出る。熊本市内の清正公像は他に三ヶ所あるが、ここに像があることを知らなかった。
上熊本駅前を通り、錦橋~旧坪井川河川敷~寺原~津之浦を経由して八景水谷公園に到着する。園内案内図で像のある位置を確認して、現地に向かう。清正公像(写真1・2参照)は樹木の間に建っている。近づいて観ようとしたが、樹木が邪魔をして全体像は見えない。
説明板(写真3参照)には、「大正14年(1925年)3月に「上水道通水」「市電開通」「第23連隊移転」の三大事業の完成を記念して開催された博覧会「国産共進会」の会場中央に設けられた大噴水塔の上に設置してあった清正公の塑像です。終了後ここに移設したもので、その後昭和59年(1984年)に樹脂による修復が行われました。この塑像は、当時熊本中学(現熊本高校)の教諭であった甲斐青萍(せいひょう)氏の手による原図に基づき、熊本県ゆかりの著名な彫刻家であった松原象雲(しょううん)氏が丹精を込め四カ月を費やし塑彫した傑作で、清正公が熊本の地で治水土木を指揮した雄姿を模したものと伝えられています。」とある。
清正公像の西隣に、「熊本市上水道発祥之地」の碑(写真4参照)がある。
碑の北側に井戸(写真5参照)がある。音がしているので現役で稼働しているものと思う。
説明板(写真6参照)には、「熊本市の上水道整備の歴史は、明治42年(1909年)の上水道建設計画案に始まります。その後、多くの関係者の御努力により対象13年(1924年)11月27日、八景水谷を水源地、立田山を配水池として4617戸へ3141㎥の排水を開始しました。この場所には創設の時、レンガ造りのポンプ室などが建てられていました。令和4年34月現在も当時の浅井戸は残されており、90年以上経った今、なお良質な地下水を供給し続けています。・・・」とある。帰路は徳王経由として帰途に就く。
16時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)16km→八景水谷公園→熊本(自宅)
総所要時間1.5時間(実1.5時間) 総計16km 走行累計60,502km