
豊後街道杉並木と里数木・頼山陽詩碑
2022/9/16(金) 晴/曇
今日の最高気温33°晴、湿度60~40%の予報だが、明日から台風の影響で自転車にのれないので午前10時からポタリングに出る。
目的地は、菊陽町未指定文化財の「豊後街道菊陽杉並木」、「里数木跡碑」と「頼山陽詩碑」とする。
ルートは、国体道路を東進し、「きくちのまんま」の先を左折し、曲手を通り白川を渡り菊陽町台地に上る。
そこから国道57を東進し、旧国道57を菊陽町、大津町境界辺りから旧国道57豊後街道杉並木道(写真1参照)を、西へ引き返す。
道が僅かに右カーブになる辺りの左側に、「四里木跡碑」(写真2・3参照)がある。
菊陽町ホームページには、「天正16年(1588)に入国した加藤清正は、豊後街道の大規模な整備をしています。江戸時代の街道は凹型で、人馬の通る部分が周辺より低く、両側が土手になっていましたが、清正により、道幅が約30mに拡幅され、熊本市立田口から大津町までの20km(当時大津馬場と呼ばれた区間)にわたり、両側の土手に杉が植えられました。現在は、捕植された杉が部分的に残るのみです。
また、各地の街道には、1里ごとに街道の両側に塚が築かれ、それで距離を標しました。その塚の目印として植えられたエノキなどの樹木を里数木といいます。熊本の里数木の起点は熊本城清爽園内の「札ノ辻」で、町内の街道区間にある「三里木」は、その名を地名に残しています。また、「四里木」は、原水の南方ありましたが、現在はその痕跡もなく四里木跡の標柱が立っているのみです。」とある。
西に進むと、杉並木の根元に彼岸花(写真4参照)が植えられていた。
さらに西に進むと「大津街道菊陽杉並木」(写真5参照)のコンクリート製の看板がある。写真左側に鉄道線路が見えるが、周りより一段低位置に敷設してある。ここが江戸時代の道路面か。その左側の杉並木の向う側は、「菊陽杉並木公園」のようである。
公園入口を探して西進すると、三里木駅(写真6参照)に着いた。二度、三度と「三里木跡碑」を探すが分からなかった。帰宅してから調べると、駅敷地と道路とを区分する緑地帯の中にあるようだ。
駅前を少し戻って踏切を渡り、工場敷地と杉並木の間の道を東に辿ると「菊陽杉並木公園」入り口に頼山陽詩碑(写真7・8参照)がある。
正面に説明文がある。
「大道平々砥不如(訳)この大きな道大津街道の平坦さはきっと砥石も及ばないだろう。
熊城東去総青蕪 熊本の城下を離れ東に進めば道路沿いには一面の青々としたかぶらな畑が広がっている。
老杉夾路無他樹 又、道の左右には杉の大樹が整然と並び他の樹木は見当たらない。
欠所時々見阿蘇 そしてその杉の切れ間からは、時々雄大な阿蘇の山々が見えてくる。
頼山陽(らい・さんよう 1780~1832)は、江戸時代後期の日本を代表する漢学者で、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍しました。
文政元年(1818年)三月、下関より九州各地を巡る旅に出た山陽は、十月肥後熊本により豊後竹田に向かいます。その途中大津街道の杉並木の景観に感動して、右の詩を読んだのです。・・・」とある。
菊陽杉並木公園(写真9参照)は広い。周回する路には、数人の人が歩いている。木陰で寛ぐ人もいる。現在時刻14時、帰途に就く。
15時半に帰宅する。今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)26km→豊後街道杉並木20km →熊本(自宅)
所要時間5.5時間(実4.5時間) 総計46km 走行累計50,937km