2019/10/31(木) 晴
豊前街道の南関町高瀬・山鹿追分から山鹿よりの、小原水府宮から辿る。
2019/6/3(月)に水府宮を探訪したことがあるが、塚に上り石碑を観ていたら「此道北観音大士穿座弘法大師彫」(写真1参照)の文字に気づいた。

弘法大師が彫った観音大士像であれば国宝級と思うが、この道の北とはどの辺りのことか見当がつかない。
この地蔵尊(写真2参照)も、事情があってここに引っ越して来たような気もするが・・・?

小原の水天宮の塚を後にして、南関市街地に向かって山の中の道を走ると十里木跡(写真3参照)の標柱がある。

やがて追分に出て少し行った所に姫塚(写真4参照)がある。
城を逃れていた城主の娘が、小原城が焼け落ちるのを見て自害した場所とある。

後ろの栗園の中に塚(写真5参照)がある。
単に人一人を埋葬した土饅頭にしては大きい。古墳の可能性も・・・?

丘を下り、橋を渡ると南関町の古い町並み(写真6参照)が延びる。
Y字路を右に曲がれば、南関町役場があり、その北側に南関御茶屋跡がある。

南関御茶屋跡を後にして、先を急ぐ。南関宿の標柱(写真7参照)がある。

この標柱(写真8参照)の先で高速道路を潜るが、この辺りで豊前街道が山道になり通行不能となる。

県道10(国道443も可)を迂回して、大牟田市湯谷柳川領境界石(写真9参照)を観る。
境界石は道の両側にあり、門を構成している。

説明板(写真10参照)には、是より4里20町余で柳河札辻とある。

もう一つ、説明板(写真11参照)は南関町が設置している。

この説明板(写真12参照)では、江戸時代には肥後側にも木製の標柱が建っており、「これより南細川越中守領分、熊本札の辻より11里8丁20間」と書かれていたとある。

境界石の間を通り、道を辿ったら県道10に出た。
そこの道路標識(写真13参照)は、確かにここが県境であることを示していた。

今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)44km→湯谷柳川領境界石42km→熊本(自宅)
所要時間7.5時間(実6.5時間) 総計86km 走行累計30,034km
南関町坂下阿蘇神社・坂下城跡・小原水府宮探訪
2019/6/3(月) 曇今日の天候は、曇、降水確率20%予報。午前9時出発。
今、伊藤雅文著「邪馬台国は熊本にあった!」を読んでいる。
それによれば、邪馬台国の中心集落を山鹿市方保田東原遺跡辺りとしている。
いつの頃の名称か分からないが、その辺りに「大道」「中村」という字名がある。
そして、魏の使者は南関を通ったであろうとしている。
このルートは、江戸時代は「豊前街道」として基幹道路であった。
3世紀の古いことではあるが、今現在にその雰囲気を残すものはないかと南関町から豊前街道と並行している国道443を東進して山鹿市に至るルートを走ってみようと出かけた。
南関町小原で「電気点燈の碑」(写真6参照)を見る。
大正11年とある。熊本市電が大正15年開業であるので、かなり遅い配電である。
茶屋があったあるので、「豊前街道」沿いの位置になるのであろう。
よく見るとこの形は塚?と思ったので、上がった見た。

元禄年間建立の碑があり、地蔵尊が祀ってある(写真7参照)。

その隣に「水府宮」(写真8参照)が鎮座する。
水府とは海神のことと思う。水天宮と関係があるのか、ないのか。

国道443を鍋田に下る途中、豊前街道と交わる(写真9参照)。
西南戦争山鹿口戦跡車坂とあるので後日探訪するとして、今日は通過して鍋田に横穴墳を見て帰途に就く。

今日も無事だったことを天に感謝する。
熊本(自宅)48km→鍋田横穴33km→熊本(自宅)
所要時間8時間(実6時間) 総計81km 走行累計28,752km